ご あ い さ つ

競馬は何故この世にあるのでしょう?この世にどれだけの、必要性や必然性があって、存在しているのでしょう?

故寺山修司氏の名言に「競馬は人生の比喩にはあらず、人生が競馬の比喩である」というのがあります。さらにそこから考えを進めれば、競馬というのは競馬だけが一般社会から独立しているものではありません。一般社会からの影響を多分に受けながら相互作用で成り立っています。ですから私は思います。競馬を寄り深く理解するには、競馬以外の社会を知り、他山の石とすべき事は取り入れていく事であろう。そうする事で競馬の世界はより豊かになり、競馬が一般社会に貢献し、有用性もより、増して行くものであると。

この世で起こるあらゆる事が競馬に類似しています。前進への指針となります。そして競馬の世界がまた一般社会に、頑張って生きる素晴らしさを教える生きた実例となります。懸命に働く馬達が、懸命に支えるホースパースンが、見届ける観客が。関わる人々すべての手で。そして競馬と一口に言っても、実にいろんな切り口があります。馬を見るもよし、ストーリーを求めるもよし、推理のスリルを求めるもよし、芸事や歴史を求めるもよし、文化の何たるかを論じるのもよし。それらは競馬を愛する人の、普段の生活や趣味に、いろんな形で生かせ、接点を有するものです。競馬という奥深い世界を、私はいろんな形で、いつまでもいつまでも、楽しんでいけそうです。だから私はこれをモットーとします。「競馬は世界の比喩にはあらず、世界が競馬の比喩である」

競馬に魂のウン分の1かを突っ込んでしまい、加えて興味持ったあらゆる事にとことん首突っ込まずにはおかない田舎女のつぶやきを、どうぞ楽しんでくだされば、万歳100唱10万馬券炸裂の管理人でございます。

 

 

〜武ほーぷはこうして生まれた〜

 

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「競馬を始めたのいつ?」尋ねられると、実は答えに窮する事かあります。何故か?実は私の競馬歴と言うのが、かなり変則的なものだからです。おおよそ、1−昭和50年前半頃、2−平成元年天皇賞秋、3-平成9年福島リニューアル開催、との3段階を経ており、通常は2、「随分詳しそうだね」などとご年配の方に褒められた(!?)時は1、馬券に関する事では3を答えています。では、遠く20数年前に、話は遡りまして…

 

この辺のくだりは、まぐれにも「2000優駿エッセイ賞三席」頂きましたエッセイに記す通りですが。―当時M2(本名)小学生、当時の女の子は例外なくアイドル歌手にうつつをぬかしておりまして、私も郷ひろみや西城秀樹、フォーリーブスやフィンガー5に憧れるそれは可愛い(?)コでした。それがひっくり返ったきっかけが、4つ上の兄貴が買ってきた「さらばハイセイコー」なるドーナツ盤レコードです。実はこの兄貴、競馬は武豊と増沢末夫しか知らない御仁で、たぶん歌が気に入って買ってきたのですが、M2がびっくりしたのがジャケット。当時のレコードはアイドルの顔のアップと相場は決まってたので、何人かで馬を囲んでる写真に「これ歌のレコードなの?」歌い手の「増沢末夫」どう考えてもカッコイイアイドルとかけはなれ、歌を聴いたら「オジサンの演歌じゃん」

今聴けば勿論、惜別の情をたたえたじ〜んとくる曲ですが、何せ当時は小学生ですから。ところが、です。ビデオなんてなかった当時はスポーツ実況のライブ盤が盛んに作られていました。でご多分に漏れずこのレコードのB面もレース実況でした。この軽快でエネルギーに満ち溢れて迫力たっぷりのサウンドの塊、中でもM2の心をたちまちとりこにしたのが、                                                 

 

「ハイセイコーとタケホープ、ハイセイコーとタケホープ!」

です。

野球にあまり関心のない人でも甲子園の決勝は見たりするでしょう。そんな感じで、だいたいそれより2年後位には、テレビで競馬を時たま、見るようになっていました、カブラヤオーだとリアルタイムで知ってたものやら怪しいのですが、TTGははっきり覚えています。ただし、ここは山形県でございます、平成9年にフジ系民放が開局するまで、競馬中継はNHKの、いわゆる8大競走(のうち牝馬と皐月除いた5つ )しか、見たことはおろかレース名さえ知りませんでした。       

そんな風に時は流れ、おそらくファンというものにはじめてなったんじゃないか?という馬が、サクラスターオー。勿論あの杉本実況ではなくNHKです。胸膨らませました有馬記念がどうなったかは、周知の通りですが、でも亡くなったのを知ったのは悲しいかな、平成になってからでした。それ以前に馬には骨折は致命傷という事自体、知らなかったんです。                        

それから、タマモクロス。“出世競争から取り残された馬が叩き上げて力をつける”どれほど、憧れたことか。秋の天皇賞、逃げるタマモクロス(以後タマちゃんで)追うアイドル・オグリキャップ。本当に胸おどらせました。実はオグリ、マル地というのは私の胸を引く大きな要素だったんですが、あまりにも大スター過ぎて、逆に「こいつを倒す奴が見たい」と思ったんです。そしていよいよ、平成元年となります。

 

 私を決定的に競馬に狂わせたのが、平成元年秋の天皇賞でした。盾取りに向け万全の大スター、オグリキャップを、誰が倒せるというのか。私の目は自然にというか当然にというか、前年の菊花賞馬、スーパークリークに向いていました。何せ幼い日のレコード実況で心躍らせていた「菊花賞」馬、(スターオーに魅かれた理由もそうでした)しかもタマちゃんを思い出させる「叩き上げ」組―以降この手の馬を“ノンキャリア”と呼びます―鞍上は前年そのクリークで、「ベテランに揉まれてひたすら頑張ってる未成年」にして菊を獲った武豊。

 素晴らしいレースでした。直線、どれが来るか見分けが付かない程の混戦から、頭一つ抜け出したクリーク、そのまま逃げ込もうとするも、やはり来ましたオグリ、必死で粘りこむクリーク。

 体が震えました…遠い昔レコードの音だけしか知らない世界に、何とか飛び込んでいきたいと、うずうずしていたのを思い起こしていました。この中に、飛び込んでやれ、と。

 で競馬場に行ったのか?実はさにあらず。我が地元の隣が公営競馬やってる上山で、そのせいからか小さい時から「競馬なんてろくでなしのやる事」「ヤクザやノミ屋や怖い人がうようよ」というイメージを叩き込まれていたんです。それに当時車の免許もなく、女が1人自力で県外まで出向くなんてとんでもないことでした。私は何かに首を突っ込むと、野球でもロックミュ−ジックでも向かう先は本屋で、競馬も例外ではなく、初心者向けの入門書と名馬列伝の文庫本と騎手名鑑を買い、これを頭に叩き込むことから始めました。それまでテレビの解説聞いてもちんぷんかんぷんの事が多かったので、これを覚えれば普通の競馬ファンと話が通じる、と思って。その勉強の過程で、今まで勘違いし続けていた、とある真相を知る事になります。…だって実況ではどっちが勝ったと言ってないし、「さらばハイセイコー」というレコードに収録されているんだから、菊花賞勝ったのはハイセイコーだと思い込んでても不思議じゃないでしょう。

 これについてはここで多くを言いません。「ダービーも菊も天皇賞も実力で勝った強い馬だったのに!大スターに土をつけたからって全否定するような事しなくていいじゃない!」と憤った思い、それは今も、きっと私の競馬観に影響を与えています。多分これからも、ずっと。

 

 かくして、テレビ画面と(勿論NHKのみ)時たま立ち読みする雑誌類で私は競馬にはまっていきます。2次元情報だけなりに、いろんな愛すべき馬に出会いました。オサイチジョージ、メジロパーマー、メジロマックイーン、ビワハヤヒデ、シンコウラブリイ、タケノベルベット…そして、出会いました、「私はこの馬を愛するために競馬の世界に入ったんだ!」と身も心も芯から震えた―彼の名は、ミホノブルボン。

 必ずしも好評価を得てはいなかった、戸山先生の「インターバル調教」「馬の筋力強化」そして「坂路調教」先生は既存のやり方や「血統が見栄えなきゃ仕方ない」といった安易な妥協論に満足することなく、自分で方法を考え実行し、結果を残す方でした。

 話は少し遡ります。当時競馬よりはロックミュージシャンに注ぐメンタルエナジーの多かった私は、チェッカーズのファン仲間に誘われてテレビの公開収録に上京し、友人と別れて「ちょっと競馬も見て見ようか、思い切って馬券も買ってみようか?」という気になりました。だってその日は秋の天皇賞、メジロマックイーン(以後マック様と呼びます)が春秋連覇を当然とやって来ている!さすがに競馬場には入れまいと思って迷子同然ながら渋谷のウィンズにたどり着いて、「!」最近の競馬場は若い女の子も一杯いるって聞いてたのにみ〜〜んなどこもかしこも怒号飛び交うオヤジの塊!どれがノミ屋かヤクザかわかったもんじゃない、いっぺんで足がすくみました。しかもあそこは1000円単位。「100円から買えるんじゃなかったの?」来た事を後悔したけど、あのモニターでもうじきマックは盾を獲るんだ…と心がやっぱり躍って、エイヤっと買いましたんです、マックの単勝2000円。勝った!6馬身!これでこそマック様よ、と、配当なんてとりがみ同然だってぇのに鼻が数ミリは高くなってたですね、ところが、です…周知の通りのドンケツ降着。オヤジ達の怒号は地鳴りか有珠山大爆発か、マジ、「怖いよ〜」ほうほうの体で逃げ出して、「2度と競馬場にゃ来ないよ〜」と懲りたのでした。

 きっと盾も有馬も獲れるんだと、ひたすら待ち続けたブルボンは、とうとう帰ってきませんでした。追い討ちをかけるように、私に競馬を教えてくれた、タケホープが亡くなりました。ビワハヤヒデは春秋連覇を獲ることなく悲しいラストに甘んじました。その頃から日本競馬に猛威を奮ったのがサンデーサイレンス。「競馬はやはり血統だ」と言われ、タマちゃんやクリークのようなノンキャリア、ブルボンやビワ(ハヤヒデ)のような、不利や無念を努力で克服するなど、お呼びじゃないような空気でした。

 そして、ブルボンの最高の戦友だった、ライスシャワーがあんな事に…

 平成7年の夏、私の心は競馬を離れていました。見れば悲しく、空しくなるだけでした。それでもテレビで、私の競馬の原点である「菊花賞」は何となく、見ていました。名前に心当たりがなかった勝ち馬、マヤノトップガン。その名前を覚えました。その馬の名を、ローカル新聞のスポーツ欄、有馬記念の出走馬の中に見つけ、当日テレビの前にいました。

 「ブルボンだ」と、思いました。鼻に白筋が入った栗毛の、あれよあれよの逃げ切り…

 くどいようですが、当時NHKしか見ることの出来なかった私は、その後のトップガンの活躍を知りませんでした。阪神大賞典がどんなレースか知ったのはビデオを買い漁るようになってからです。そして競馬にさしたる情熱を持てないまま平成8年は暮れ、私は当時勤めていた職場が廃業して再就職した先に、ヨコヤマノリヒロなる奴がいました。(字は違う)そして1年ぶりに再会したトップガンは人気になりながら、ヨコノリ鞍上のサクラローレルに敗れました。

 

 有馬の翌日、同僚のヨコヤマに「有馬記念に乗ってたの」などとバカ口叩いてましたが、あのトップガンがああもあっさり負けちゃった事が心に引っ掛かっていました。そして翌平成9年、私の競馬にとって革命的な事が立て続けに起きます。まずは4月にフジ系民放が開局し、GIレースだけですが観戦できるようになった事。トップガンの素晴らしい差し脚に、いつしかかつて馬を愛した気持ちがよみがえりつつあった事。久々にダービー逃げ切り勝ち馬が出たこと。インタビューの大西Jに一目ぼれ(?)状態だった事。

 そして、福島競馬場、リニューアルオープン。その話題を雑誌などで目にすると「行ってみようか。福島なら車でいける」と、いても立ってもいられません。実際には山形−福島間の道路はきつい山越えで、車に慣れない女性がおいそれと運転できるもんじゃないのですが、それでも職場の男性に「国道4号線を目指していけばすぐ見つかる」と言われたのをたった1つの頼りに、福島に向かう事になります。渋谷の怖い思いはどこへやら。

 初めて行った競馬場でした。生の感激を知りました。初めて競馬新聞を買いました。夏開催だった事もあって、憧れのGIで目にする大物がぞろぞろです!!!大西さん(実は福島のヌシだったと後で知る)吉田君のクラシックコンビ、岡部さん、エビショー、ヨシトミ…この瞬間にリピーターになるしかありませんでした。惜しむらくはその日土曜日で、翌日だったら武豊Jがきていたそうな。

 

 トップガンはその後走ることなく引退してしまいましたが、悲しんでる時間はない位でした。エアグルーヴの天皇賞、「女が実力で男と対等勝負」その爽快感と力強さ。「ノンキャリア4歳馬」タイキシャトルの台頭。1年前の冷たさが嘘のようにそして…出会いって、何処にどう、待っているかわからない物です。「もうブルボン以上に愛せる馬なんていやしない」ってずっと思ってたのに、3歳馬なんてさして関心持たないのに、朝日杯のあのパワフルな走り、ブルボンを初めて知ったときと、遜色なんかありゃしない…そういえば立派な馬格の、やっぱり栗毛…彼の名は、グラスワンダー。

 

 グラスをひたすら愛し、彼のストーリーが完結すると前後するように、「ノンキャリアのエース」メイショウドトウに、競馬魂の多くを預けました。タケホープの思い出をエッセイに綴り、幸いにも賞を頂き公表して頂く事が叶いました。その際に招待を受け、ダービーを府中で見届けることが叶いました。新潟へも自分で車を乗り回していきます。ざっとこのような形で、武ほーぷは現在に至っています。